アル中になるには、分けがある
「アル中になるには訳がある」
「民主的な視覚障害者団体と信じて加入して、早十数年になる。
そのmlをめぐって、「けんか両成敗」らしき最も論で、討論も尽くさぬままに、そのmlは閉じられた。
渦中の人物と見做された私は、「美辞麗句、正義をもっともらしくふりかざす」人物として、非難されたままである。
物事には、裏表があることは、還暦をへた今、分からないでもない。
しかし、信じ切手、その組織内で、原点に沿って活動してきた私には、その「裏面」と遭遇して、驚愕するばかりである。
幸い、私の周辺の仲間は、ずっと助け合って、生活しやすいようにと、すこしづつ成果があがってきている。
そこには、切手も切れない、「絆」がある。
幼いころから、何でも知りたがり屋で、お喋りで、活発な私であった。
思春期に、読書に魅せられ、私の人生は、「人間とは?」から始まり、「哲学、美学、文学、民俗学などに魅かれて過ごしてきたと言っても過言ではない。
ホームレス、アル中、非行、殺人、自殺などなど、批判される事件を挙げれば枚挙のいとまもない
表面化した、あれこれの自称は、実は「氷山の一角」である。
そこまでに至った事情は様々であるが、一向に理解などされずにいる
怒られたり、あきれられたり、処分されたりで、この世の邪魔者扱いである。
私は、「死刑反対論者」である。
さて、ml廃止に遭遇して、どろどろした裏の世界に直接巻き込まれた私は、本では、何度も体験しているが、自分が、その中で、保身のために、意見を異にする者への弾圧を受けてしまった。
障害者故、受けざるをえない「権力」に打ち負かされて、何度も絶望のふちに立たされ、未遂に終わったが、自殺願望を実行に移したことがある。
未遂が故に「人の迷惑も考えろ、卑怯だぞ」と、夫には、罵られてきた。
今回の原発事件で自殺した人たちは、成功したから、非難はされず、同情さえかっている。
「絶望は、死に至る病」(哲学者ケルケゴール著)は、言いえて妙である。
人間は「致死率百パーセント」が、胸にすとんと落ちた時、自殺はしないことにした。
しかし、この不条理、それでも、信じきっていた、民主団体の裏切り、私物化には、どうしても、気持ちが晴れない。
「視覚障害者になったことがないから、本当のことは、分からない」と、夫は、一線を隔す。
この、むしゃくしゃを、どうすればいいのか分からない。いきおい、アルコールに手がでる。
頭が痛くなるが、思考力線は、平坦になり、悩みがうすれる。
食事は、のどを通らない。
「薬」をやる者の気持ちも分からないではない。
私は、中学のころ、「自我」に目覚め、それ以来、ずっと、書くことによって、苦しみを克服してきた。
いわゆる自己分析を書くことによって「昇華」して来たと言える。
このままいったら、おそらく、夫の「沈黙」にも耐えられず、アル中になることだろう。
今は、パソコンで、文章が書けるまでになったので、改めて、書くことによって、憤慨して、アルコールにおぼれかかっている自分を、冷静にさせようと試みている。
残念ながら、「アル中で、何が悪い」という気持ちは、消えてはくれなかった。
でも、少しは、整理できたかもしれない。しょせん、自分に甘えているのだろう。。