抜かれた雑草
抜かれた雑草
早朝、しろ杖を目の変わりにして、「老化防止」もかねて散歩をしている。
季節によって、漂う匂いや、取り巻く音が異なる。
春は、小鳥の「縄張り」と「相手を呼ぶ」いたましい程の泣き声で、満ち溢れていた。
初夏は、雑草刈りの騒音と、霧口からあふれ出る夏草の強烈な匂いが「悔しい!」と叫び声を巻き散らしている。
「草息切れ」と同じ症状だ。
かと言って、:
雑草は強い。刈られても、根っこさえあれば、再生する。
昔、道路が、土であった頃
は、刈られても伸びる雑草を、抜いては、道端に置き去りしていた。
いつの間にか、雑草じは、土に戻っていた。」」それらは、生命の循環」をしていたからだ
植物の生命力は、盛んで、樹木も、塀を飛び出してぐんぐんのびる。
この植物と言われる生命は、それなりに尊ばれ、手入れまでされる。
しかし、雑草は、その植物の妨げとして忌み嫌われ、退治される。
毎朝、刈られそこねた雑草が、根っこごと抜かれ、コンクリートの上に置き去りにされている箇所によく出会う。
歩き難いのはどうでも我慢はできる。
しかし、抜かれた雑草が、人に便利な舗装と焼け付く日差しで
土に帰ることもならず、日干しにされ、踏みしだかれて、消滅してしまう彼らの先行きを思うと心が痛む。
誰か作家が、道路では無いが、母親が、大きな石の上に抜いた雑草を放置している場面を描写していた。
「母親の運命を予感させる」場面として。
人はなぜ雑草を、植物としてみなさないのだろう。
今、雑草として、生き抜こうと、ゆらぐ心をやっと落ち着かせたばかりというのに、どうしても「植物」扱いはしてもらえない。
コンクリートの上に横たわる抜かれた雑草に、手を差し伸べ、水を与え、植えなおす人は皆無に等しい。
あまんじて、その姿と我が姿を重ねて生きねばならぬというのか?
この世から「不条理」は、いったいいつになったら無くなるのだろう。