ひととせ への原稿です。

反面教師
小田嶋保子
ある日突然、せかいは自分ではなく、何か別なものを基軸にして動いているのに気付いた。自我の目覚めだった
のだろう。中学三年、鏡を除いている時であった。

林檎の赤、イチョウの黄に魅惑される自分がそこに居た。

何かが、待っているようなきがした。

受験競争に勝ち残るのが目的のような時代の始まりだったろうか。

幸いにも、当時の進学生に与えられた課目は、数学、化学、物理、生物、地学、世界史、倫理、古典、国語、家
庭、などなど多種多様であった。

あの何者かの扉を開いて見せてくれるものばかりであった。

特に、英語は、子どもの頃から、その発音の美しさに魅了されれ、日本語以外の言葉で、意思疎通をしている不
思議さにとらわれていた。

字幕の見えない悔しさに、必死で映画やテレビの英語番組を見続けていた。

担任は英語の教師で、受験に備えて、補修で多くの読解力のための教材を使用した。

その中には、サマセット モームの評論があった。その内容をもっと深めたいと願ったが、補習授業では、無視
され、無味乾燥なものだった。まして、美しい音声など聴くすべもなかった。

担任は、五十人の自我に目覚め、思春期真っ只中の生徒達を、一度も話し合わせたことは無かった。例えホーム
ルームでさえも。

あらゆる科目が丸暗記であった。世界史を学びつつも、中国の文化大革命の真相も日本の政治の実態さえも知ら
ずに過ぎた。

自己嫌悪を抱えながらも、自分とは?との探究心は押さえ難く、情緒的な側面で、読書と随筆を書くことによっ
て、自らを満すのが精一杯であった。

最後のホームルームで、担任は、何を書いても良いと、用紙を配った。たまりにたまった思いの丈を存分吐露し
た。が担任からの反応はなかった。反面教師になろうと決めたのはその頃であった。

やがて、皆大学に入り、そこそこ安定した生活を手に入れた。たった一人を除いては。

理学を極めたいと北大を目指していた彼女は合格できず、青函連絡船から身を投じて短い人生を自ら閉じだのだ
った。

当時の大学生活は、現在とは異なり、人類の残してくれた遺産、いわゆる一般教養を十分満たしてくれるもので
あった。

したがって、専門しか知らないなどという教師は少なかったと思われるのだが・・・。ゆとりのある四年間を過
ごせたのだから。

時を経て、担任教師は、教え子達をたいそう可愛がってくれた。たった一回だけの担任だったからなのだそうだ。

だから、頼むと何でもきき入れてくれた。

昨年、良かれ悪かれ、我が恩師は高齢でこの世を去った。反面教師を貫いたことは、とうとう伝えることはでき
ず仕舞いであった。