母と偕楽園 (年金者組合機関誌 「花の輪」への原稿です。

母と偕楽園

「何歳になっても、父母を慕う思いはつのるばかり」と言われています。

当世、親や子が殺し殺される事件が多発しています。

その原因を探ってみますと、必ず経済的貧困に行き当たります。

親にも子どもにも、この社会の歪みがのしかかり、多様な形態で現れています。

生まれてから死ぬまで、生きていくのに必要な経済的保障があり、

その飢えに、自分の人生が選べるならば、

おそらく現在のような状況はしょうじないでしょう。

父は教員で、母は専業主婦でした。

安定はしていても、決して楽な生活ではありませんでした。

母は父を助け、三人の子ども達を育てあげました。

父母の生き方は、家族や周辺の人の役にたとうということでした。

突然父が他界したとき、母は途方にくれていました。

とても一人暮らしができる状態ではありません。

そこで、老後を過ごした家をあとにして、

妹一家と暮し妹の子育ての手伝いをすることになり

やっと、あらたな役割をみつけました。

その後、韓国出身で、あめりかの市民権のある
兄の妻が、

カウンセラーの資格を得るために、兄と子どもを残して渡米しました。

兄は牧師でしたので、母も教会に通うようになりました。

晩年の母は、教会の皆さんに慕われるようになり、役目を果たして、父のもとに旅たちました。

私は、その母が妹たちと、水戸の偕楽園に出かけたことを聞いていました。

雨の降る日だったそうです。

私は、母が何を見たくて偕楽園に出かけたのか、いつか、追体験をしたいと思っていました。

私も、けがの合間をぬって、偕楽園への旅にでかけました。

やはり、雨の降る日でした。

梅園の小道のわきには、紅梅と白梅が林立していると、夫に教えられ、

その、数本に触らせてもらいました。

それは、太く、ごつごつしており、枝を四方に伸ばしていました。

花はまだ少ししか咲いていませんでしたが、花の小さいのに驚きました。

大勢の人々が行き交っていました。

それぞれの人が、それぞれの人生を歩いているのだなと思いました。

母が見た満開の紅梅、白梅は

大きな花の集まりとなって、たっぷりとした姿で、母の眼前に広がっていたことでしょう。

きっと、歩んできた道を思い起こし、林立する梅の木に

自らの姿を見つけたのではないでしょうか。

私の眼前には、何も見える物はないのですが

夫の表現と、私の触覚により作り出された紅梅と白梅の林立する姿が脳裏に開かれました。

美しい光景でした。

懐かしい母に会えたような気さえしました。

私は、いつかは、梅園の梅の木と一つになりたいとも思いました。

(これは、入院中に、メモ用紙に、見えない目で書いたものです。

夫が、ワープロで書いてくれたものを、読んでもらって、メールに書き換えたものです。

手術の経過は、良好で、しばらく、リハビリに通い、痛みがひけるのを待っているところです。

ご心配かけました。ぼちぼち、投稿させていただきますので、よろしく御願いします。)