下駄の音

下駄の音
私の友人で近隣にすむ、後期高齢者医療にいれられた、と怒っている若々しい老婦人が
いる。毎朝早起きのわたしは、「アメニモ マケズ、、、朝食と昼食用の弁当を用意し
て、彼女宅に散歩代わりに、白杖を駆使してでかけている。それができるかどうかがわ
たしの心と体のばろめーたーだ。いまでは、側溝など、何のその、「目をつぶっても」
あるける。(?)彼女は、私同様、一風変った、と言っても、昔はそれが当たり前だった
のだが。年に一度、秋田から、産業まつりにやってくる職人さんに、下駄の歯を代えて
もらって、毎日愛用の下駄で、カラコロと音を立ててあるく。歩く距離も半端ではない
。同居しながら、独居している。息子夫婦と別に毎食「まごわやさしい」をつらぬいて
いる。豆、胡麻
わかめなど、しっかり噛んでたべる。私は、それに「たち(卵にチーズ)を加えて雑穀入
り玄米も食して、否、夫に食べさせている。この頭文字の食品は、彼女や私の育った時
代では、当たり前だった。そして、下駄も子供のころは、舗装などはなく、馬車のわだ
ちと馬糞だから、余程お天気が良い、乾いた日でなければ、カラコロなど優しい音はし
なかった。雨が降れば、「ピチャピチャ。泥道は「グシャグシャ」とそれはそれは多様
な音を持っていた。大きな下駄やもあり、選ぶのに目移りがし苦労し。「。買ってもら
った先から後悔ばかりしていた。その大きな下駄やの隣が風呂やで、大分はなれた田舎
に借り住まいしていた頃、月夜の晩に、一家5人で、洗面器に石鹸と手ぬぐいを入れて
風呂敷につつんで、それぞれの下駄の音を立てて薄ぼんやりと白く浮かんでみえる道を
歩いて風呂に入りに出かけたものだった。夜盲のわたしは、いつもだれかと手を繋いで
やっぱり、カランコロンとわざとおとをたてて歩いていたような記憶がある。しかし、
時代も変わり、さしもの私達一家も、いつのまにか、下駄の存在は、すっかり忘れてし
まっていた。勿論、女物と男ものの下駄は、あるにはあるが、それらは、子育てを終え
た夫婦ふたりの下駄箱にひっそりと収まっている。でも、彼女は、下駄にこだわり続け
、毎日彼女の足もとからは、カラコロと懐かしい音が響いて来る。