数学はたのし

思いもかけない出来事が、よくもまあ、次から次へと、我が身、我が家族、我が地域、
わが友人知人、わが街、我が県、我が日本そしてこの地球に。
起きるものだ。それも、政治、経済、医学、教育、などなど、分野は、多方面に渡って
いる。我が身は、せっかく、若葉が芽生え始めたばかりの傷んだ心に、害虫なのか、そ
うではないのか、人間の都合で、決められただけなのだから、その虫にしてみたら、ど
うということはないのだが、とにかく、いつ、わがこころに産み付けられたのか、今頃
になって、若葉を、むしゃむしゃ食べ始めた。だんだん、食いつぶされて、また空疎な
そして瞑想に振り回されて、答えのない世界を漂う日々に戻るのだろうな、と発熱し、
涙ぐむ自分の存在で、予想される。ところで、我が趣味には、スポーツ観戦はない。周
りは、サッカーと野球放送で溢れている。早々、2階の自室に行くべく、歯磨きなどし
て、ぼんやりした頭を覆っている汗っぽい髪の毛を振りほどいて下着も取替え、寝巻き
をさがして身に着ける動作をのろのろとこなしている、その時、いつものラジオ第2放
送は、高校数学にかわった。次第に数字や説明が意味をもって脳裏にとどいた。動作を
しながら、懸命に、座標を脳裏に描き、指示されるがままに、思考がすすむ。とたんに
、数学が嫌いではなかった、むしろ、問題が解けたときの喜びと開放感が、心に充満す
るのがこたえられず、今で言う「はまった」状態になり、徹夜してまでも、難解な問題
を、もてる知識(定石)と知恵を総動員して、何度も同じ方法を繰り返し、やっぱりこ
れでは解けないと悟り、別な角度から迫ってみる。この繰り返しのうちに、はっと、ひ
らめく事があって、明け方、正解にたどり着く。なんと楽しい時間だったろうか。しか
し、我が青春期は、そのような、時の無駄使いを、ゆるしてはくれなかった。2年の夏
休み、たっぷり、すうがくも宿題が出され、たっぷりそれに時間をかけて、ひとり、密
かに、楽しんでいた。そして、95点、善行2番というおまけまで付いてきた。その後
、自分のペースで、たっぷり時間をかけて数学を楽しむゆとりなどは在りうべくもなか
ったのだけれど。あの頃は、受験という名による、沢山の人類が延々と伝えられてきた
文化の一端をのぞかせてもらったのだとおもう。「英語なんか使わないのになんで勉強
しなくてはならないの?」「微分積分なんかやって、何の役にたつの?」と英語と数学
の嫌いな子ども達は疑問をなげつけてくる。その都度解き明かしてあげるのだが、あま
りに、言語学と数学とも、奥が深くどこから始めたらよいのか戸惑う事が多い。これら
は、人類の進歩と無縁ではなく、根っこはそこにある。受験のテクニックとしてすんな
りとおり過ぎて行った友は多い。「なんで?どうして?」と問う思春期の子ども達も多
い。どちらも、真の理由を知らされることも、たどり着く暇もなく、不完全燃焼のまま
青年期を通りすぎていく。そこには、「思考を楽しむ」世界は扉さえ隠され、その「楽
しさ」を知ることなく、それでも、ずっと、頭のなかは、はてなマークで一杯なのだけ
れど、それを解きほぐす糸口さえ与えられてはいないで、人生を終える。本質的に、人
は、知りたがりである。子育てした親には、それは、よくわかる。が、日本の生活事情
は、親をして、子にその探究心を思い留まらせざるをえなくさせている。そんなことに
、みんなが気付き、それに、たっぷり時間などを費やされては困る人々が、それを、許
さない。彼らの、有り余る豊かな人生を、奪われかねないからだ。そうしたことのせめ
ぎ合いのはざまで、我が心身はむしゃむしゃと食い荒らされつつも、「数学は楽し」に
ちょっびり寄り道して、「これが、その虫を逃がしてやる戸口かもしれない。」と混沌
とした心情で、ふっと思ったそう、「学問は楽し」還暦は過ぎたけれど、どれかの扉を
開いてみようか。」それは、「雑学」だっていいのだから。とにかく、青春奇還暦を過
ぎた我が身は「数学は楽し」を持ちこたえていた。きっと、そこに、難問を解くヒント
がありそうだ。