私は産まれて数時間?

私は夫との間に、
37年前と32年前に二人の「愛の結晶」を設けた。
その瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
そうして、私のもう一つの家庭が築かれた。
それは、今で言うアナログのカラーフィルムとして、
子ども達が自立するまで回りつづけ、今でもフィルムは、回っている。
いつの間にか、子ども達は、
私の知りえない「デジタル」の世界で、
それぞれ稼動し、時々、私の人生に、「とんとん」と、ノックしてくる。
私が生、涯を閉じる時、
それは、やはり、カラーフィルムのままで、思いっきり速く回転して消えてしまうだろ
う。
その後私が物心ついてからの、セピア色フィルムが、ゆっくり逆回りしながら、懐かし
く映像として私に、
プレゼントされることだろう。
しかし、そこには、62年前の、産まれたばかりの私は、写ってはいない。
想像もできないが、
あの、小さくなって、病床で、障害を閉じた母の、
お腹を痛めて、
この世に私が登場したのは、紛れも無い事実である。
産まれて数時間の私には、それが、どのようにして、
始まったか、知るすべも、もう無い。
戦後間もなく、父と母の新しい家庭が築かれ、
記憶の無い幼少奇の空白を含めて、
私は、彼らの家庭で、そだてられた。
その、セピア色のフィルムには、厳しい父親と、
家事と子育てと近所付き合いを、たんたんとしてこなしていた母の姿が、
途切れなく登場する。
長女を生後6ヶ月で食中毒で亡くした両親は、
最後まで、「悲哀」を、
その後産まれた私達3人の子供達に、語ることはなかった。
私が産まれる前の、
戦前戦中の二人の生き方はそれぞれで
、大人になってから、時々聞かされてはいたが、
セピア色のフィルムには、微塵も出てはこない。
エピソードによると「反戦家だった父」
「断層女卑の時代、長女として、
こま使いのように家事労働を担わされた母」。
その二人の共通の暗黙のルールによって、かもし出される雰囲気の中で、
数時間前から、私の人生は、スタートしていた。
これも、後に分かったのだが、父には、
はっきりとした、子育て方針があった。
高校を出るまでは、
厳しいしつけで、
物事の良し悪し、
家族関係を通して、
互いを大切にしあうこと、
役割を責任を持って果たして、
互いに助け合って、
生活を維持することであった。
それを破ると、厳しい叱責と体罰が待っていた。
3人が3人とも、
別々な反応を示し、
それでいて、
3人の中に
、父の意とする規範が、
全く自然に、培われていった。
母は、クッションとなって、子ども達の反抗心を、
さりげなく受け止めて、受け流していた。
だから、文句を言ったり、
やつあたりしたり、
ルール違反を、
いとも簡単に許してくれていた母の姿が、
映像の中で、ゆるみとして、
登場してくる。
当事は、とても理解できなかったけれど、
高校を卒業してからは、家を離れたこともあったせいもあるだろうが、
父は、私達を、叱るどころか、
文句一つ言う事も無くなっていた。
帰省の度に、両親は、笑顔で迎えてくれた。
それも、何度あったか覚えていないが、結婚して、子どもが産まれるまでは、なぜか、
全て白黒のフィルムで、
映し出される。セピア色ではなくなったのは、いつごろからだろうか?
そのフィルムには、私だけの、少女期の思春期、青年期の思いや場面が、数限りなく移
しだされる。
しかし、どれも、甘酸っぱく、懐かしく胸中で、
きゅーんと鳴り響きはするが、すぐに切り替わり、固定する事はない。
ところが、常に固定して、映像を結ぶ場面が、父にも母にもある。
父は、若き校長として、おそらく、
何か間違いを起こしたと思われる生徒とその親が、
我が家を訪れ、父の部屋で、ずい分と長く話し込んでおり、
その親子が、我が家を去る時は、
涙で、顔をくしゃくしゃにして、何度も何度もおじぎをして返っていった場面である。
父は、何も、家族に語ったことはない。
母は、事情は分からないが、近くのちいさな子やのような家で、
たれ流ししながらも、独居生活を余儀なくされていた老婆のため、に
当事は、水道も普及してはいなかったので、
バケツで水を天秤棒で運んでやっていた。時々食事も運んでいた。
近所は、誰も、寄り付かなかった。
けれども、私は、その母がそうする事を、自然な行為と受け止めていたし、
なぜ、他の人たちは、その老婆にかかわらないのだろうか、不思議であった。
そうした母の行為は、その謎とともに、「強烈な場面」として、鮮明に、しかし今では
、父のそれとともに、セピア色に化して、深く胸中に、
刻まれている。
思い起こせば、「人、皆平等に命ある物としてうやまれる存在なのだ」という考え方が、
無意識の内に、社会人となって、自分の家庭を築き、
夫と二人だけの年金生活になっても、
ごく当たり前な事として貫いている。
現在、そのような考え方を基盤とし、
人生を送っている人は、少数派なのだが、
私が産まれて、数時間目には、
既に、私の周囲、
両親によって、築かれ
、産着のように、私は
、それに包まれ、
なんども、着替えさせられて、
今に至っているらしい。
そして、両親が、与えてくれた、
あの家族関係は、
両親亡きあとの、
ともに60代になっても、
それぞれの生き方に脈々と、
受け継がれ兄妹の絆は、
より強く結ばれ、
それぞれ、ぼろぼろになりながらも、
それぞれの家族への愛を育み、
子ども達を、一人前の人間として、
この荒れ狂う世の中に、
なんとか、船出させえたことは、
それも、それぞれのやりかたで、「人を愛することのできる人間」として、である。
だから、私立ちは、それぞれの子どもに、「絶対の信頼を置ける」までに至ったのであ
ろう。
二千十年十月五日、62才を迎えられた私は、今、振り返ってみて、
満足とともに、この遍歴を支えてくれた新年を、育んでもらえた事を、
心から喜んでいる。