8月9日 溶けたがらす、影になった人

8月9日、溶けたガラス、影になった人

今から去ること47年前。18歳の夏休み、九州に住む叔父宅を拠点に、妹と二人、九州一蹴の旅に出た。

当時は、弱視ながらも、油絵、ピアノ、、レース編み、洋裁、スキー、合唱などなど、何の違和感も無く、興味のある事には、何でも、はまっていた。

二人は、長崎の「原爆記念館」を、おとずれた。原爆の日の記念行事ぐらいで、他になんの知識もなく、といっても、当時は「原爆のきのこ雲とか、背中がケロイドになった人の写真は、教科書に載ってはいた」ので、被災国民として知っておきたいという気持ちではあった。

そこで、目にした物は、原型を留めない、グロテスクな物ばかりであった。妹が、説明文を読んでくれた。全て、投下された原爆によって、一瞬にして、形ある物が全く異なった物体と化した姿で、陳列されていた。

何故か、瓶類が溶けて、ガラスの塊になった姿を目にした時、「どうして、こんな事になったのか?不自然すぎる!」との思いが、色彩と共に、胸中に定住してしまった。端の上に、影だけになってしまった人の姿は、白黒のネガとして、焼きついてしまった。

長崎の平和公園にも足を運んだ。暑い日であった。平和記念像が白く白く輝いていた。空は、真っ青であった。なのに、二人は、アイスクリームを求めて奔走していたのだった。

あれから数十年、二人とも、配偶者を得、子供にも恵まれ、共稼ぎに奔走させられ、そして、子供は巣立って行った。職業は違っても「生命」を重んじる視点では、同じ立ち位置にいる。

そして今、二人とも、両親と死別してしまった。癌の仕業であった。20年以上前に父が、10年以上前に母が、くりすちゃんとして、逝ってしまった。

その時点で、二人は、それぞれ「生と死」についての放浪の旅に出ることになった。書物を読みふけり、実際、両親の影を求めて旅にも出た。

奇しくも、今年の3月11日に、原発が水素爆発して、炉心が「溶解」してしまった。今でも、放射能は、放射され続け、またぞろ日本を汚染し続けている。

本日8月9日は、原発によってではなく、原爆で亡くなった方々の慰霊祭の日である。現首相は、無感動に、魂のこもらない、一本調子で語った。私は、聴き逃さなかった。彼が「究極の核廃絶をめざして」とさらりと言ってのけたのを。

世界、特に大国ではない国々は「期限を切った核廃絶を!」と訴え、その声は、日本人には届かないように操作されているが、ますます大きくかつ拡大しているのにである。

欲望を募らせる一部の階級層が権力を振るう、大国として。日本国として。これを「パワハラ」と言う。要するに「権力を行使して、力くで、弱い者いじめ」をした、しているのである。

妹と私は、ある意味で、この「権力」に、抑えつけられ、一時負けてしまった。原爆で、ガラス瓶が溶けて瓶ではなくなったように、醜い姿と化してしまう所であった。

されど、二人は、「影だけの人」にはならなかった。なれなかった。二人とも、おそらく「不条理」には巻かれたくないとの、根っからの「負けず魂」を持って産まれて来たからなのだろう。

何度も被爆した日本は、醜いガラス玉にならぬよう、陰しか残せない人にならぬよう、私の様に、あまり時間の無い人も、これからまだまだ時間が残されている人も、この日、あの日を胸に刻んで、「魂の抜けた状態で、ぬけぬけと哀悼の言葉らしき事を口にする」のではなく、「魂のこもった、祈りにも似た力を奮い起こしていけるだけの民族になりえないのだろうか?

せめて、私は、「そういう者になりたい」。