日本人の利己主義はどこから?


春はまだまだ遠い国でやっぱり桜を夢見る岩手の小田嶋です。

mlのみなさんおはようございます。

やまちゃーん、たけぼうさーん、桜咲いたの声が待ち遠しいですね。私にも並々ならぬ思いが桜にはあります。それはまたあとでね。
私は今ラジオ第2放送夜八時半からの「カルチャーアワー」を聴き入っています。

夕べは「芸術、音楽と詩」で「シューベルト菩提樹」でした。解説者のとても不快観察、洞察力そして芸術論に毎回感銘を受けています。

石川啄木も何曜日かに取り上げられています。どれも一流の方の解説なので知らなかったことを新しく発見する楽しみが増えました。

これで私の人間性が深まるといいのですが。その前に健康を取り戻すことが必要なんですが。

さて、少年の自殺問題は、マスコミに取り上げられ、おかしな市長によって、あらぬ方向に向かっているようです。

マスコミも、その真の理由に迫る事はしません。

問題は、国家権力の下に教育を取り込んでしまったことです。

歴史は古く、私が現役だった以前から始まっています。

臨教審から始まり、主任製、などなど、そして、とうとう教育基本法まで変えてしまいました。

十年で教員の免許は取り上げ、続けたいなら試験をもう一度受けるか研修を受けて合格しなければならない。(うっそうー!オ)

教員間に格差を持ち込む制度、いろいろな大会で成果を挙げた教員を特別主任として手当てを出す。有名高に何人入れたかで出世する。人事で差別する。形骸化させていた「勤務評定」も息を吹き返し重く教員にのしかかる。

職員室には私語がまったく無くなりパソコンに向かう姿ばかり、給料もパソコンで知る。

いじめを出すな、学力を上げよ、と担任同士を競わさせる。

こうしたことの行き着く先は、「生徒の荒れ」「手に余す子は無視」「昼食だけ食べに来ても出席扱い」「非行は点数化してさっさと退学処分」

経済界の「物言わぬ人間製造、エリートは一パーセントだけで結構」策は着々と成果をあげつつあるのです。

人間性の豊かな指導者によってこそ子供たちは成長し、豊かな人生を送れる筈なのに、その基礎になる「生きるためにひつような基礎知識さえも与えられず、両者ともに、そして社会人も競走馬のごとく鞭打たれ走り続けることを強いられている、これが現在の日本の姿です。

そこに生まれるのは「自分さえ良ければ、という利己主義」だけです。

そして今、親も子も自殺した少年を恨み、それを容認した関係社を恨む。

いい気味と思えこそ、もやもやした気分は、決して晴れないでしょう。

「自助、共助、公序」の構図を打ち破ってこそ、日本はどうすれば良いのか、見えてくることでしょう。

それは、刷り込まれた思考を振り捨て、外的圧力をも振り切って自力で考えはじめることを必要とするでしょう。

「自己と他者」で社会は成り立っていること、自己を愛するなら他者をも愛する対象なのだ」を、はやく分かって欲しいものです。

宮沢賢治の思想につながり、それをだれも否定しないように、地に足の着いた教育、考え方に向かって日本は進んでいって欲しいと願っています。

体育、芸術、物理、化学、文学などなど、人類の残し伝えてきた遺産のともし火に触れてみようかと思える心が育つことを願っています。

体育は健康をつかさどる、食育も心と体を育て、維持します。壊れかけた食品(もんちゃん提供の添加物で体は破壊されつづけますが、tppでは、その表示はされなくなります。)

ああー、上げるときりがありません。それが、みんなに嫌われる原因なんですね。「分かっちゃいるけどやめられない)

ここまで聴いてくださったみなさん、ありがとうございました。